先日、小田原城を見てきました。
小田原城の天守の中に4階建ての資料館があり、 北条氏 数代の貴重な文化財が展示してありました。
宝永時代の再建時に作成された引き図や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものだそうです。 城の内には、古文書、絵図、武具、刀剣、調度品、地元の民芸品などの歴史資料の展示室となっていて、標高約60メートルの最上階からは、当日は、良く晴れていたので、相模湾が一望できました。
伝統工芸品や武具や当時の文化財も素晴らしいものでしたが
難攻不落、無敵のお城といわれ上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えたと言われる小田原城は壮大でした。(現在の城は、江戸時代の復元なので、戦国時代とは異なるでしょうが・・・)
クレーンもトラックもパソコンもCADもない時代に・・どうやって?
思うのは・・
クレーンもトラックもパソコンや電動工具やCADもない時代に、どうやってこのような城を建設したのか?
石垣の石1つを考えても、山から大きな石を切り出して、運んで、積み上げて
一つ一つの事が手作業で行われた訳で、石の加工を考えても多くの工具や技の累積がないと実現しません。
200キロ以上ある鯱瓦をどうやって屋根にのせたのか?
天守閣を飾る鯱瓦だけでも1つ200キロ以上もあるそうです。
どうやって屋根に鯱を載せたのか?
高い所に重い物を持ち上げるには、足場を組んで、滑車を使い、縄(女の人の髪の毛を編んだとか言われている?)で、人と牛の力で引き上げたらしい。
そして、鯱瓦は、幾つかのパーツに分かれていて、それらを上まで人が運んで、屋根の上で組み立てたられたと考えられているそうです。
名古屋城は、4年かかり動員人夫は、延べ558万人?と推定されているそうです。一日数千人~一万人が工事に当たり、 石垣の工事には毎日5~6千人の人夫が、石を運んだと伝えられているそうです。
小田原城の建設でも同じように数万の人が集められたのでしょう。
(食べるのがやっとの時代に大変過酷な仕事だったろうと思います。)
人手と知恵を使って、当時の日本人は、さまざまな問題をクリアして、この城を創ったんでしょうね。
この時代にも困難に直面しながら、城の設計や総指揮をした日本人がいた
多くの困難に直面しながら、城の設計や総指揮をした日本人がいたかと思うとスゴイの一言ですね。そして、何代にも渡って、様々な分野の技が継承され、磨かれててきたのかと思うと凄いことです。
弊社も創る仕事に従事していますが、
昔の日本人の知恵と努力を見習わないとと強く思いました。
小田原城ぐらい過去の歴史を保存できていたら 行田市も「忍城」が観光資源になったのでしょうが・・^^;